司馬遼太郎
空海の風景(上)
中央公論社 (1975.10.30)
讃岐のくにに生まれた空海は、地元の期待を一身に背負い、当時の都である
奈良へと出ていった。
そこで親戚としていた佐伯氏等の世話になりながら、大学の明経科へと進学する。
ところが、途中で退学し、僧へと転身する。
そして行動の不明な数年の後、遣唐使船で唐へと渡り、その都長安へと入った。
彼の目的は一つ、密教の教えを受けることであった・・・
空海の風景(下)
中央公論社 (1975.11.30)
唐から日本へと戻って来た空海は、既に最澄が密教を広めてしまっている事に
愕然とした。
だが、その広がっている密教は、正規のものでもなければ十分なものでも
ない事を知っていたため、最澄と戦かおうといろいろと作戦を立てていた・・・
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